ある教育現場で起きたことです。
冬のある日、ある子が円の中心に座らされ、周囲を上級生たちが取り囲んでいました。
ルールを破ったという理由で上級生に囲まれ、ギャラリーが見学しているなかで泣くまできつい言葉で責められて震えている子。
「お前が悪いと思うやつ、手を挙げろ!」 「異議あり!死刑!」 そんな言葉が飛び交う、恐怖の「子供裁判」。
これを「子供同士の自主的な遊び」と笑って見過ごせる大人が、今の日本にどれだけいるでしょうか。

元日本語支援員として多くの子どもたちを見てきた私にとって、その光景は「異常」そのものでした。
特定の子を「被告」に仕立て上げ、寄ってたかって言葉の暴力を浴びせる。 そこには「教育」も「正義」もありません。
あるのは「強い者が弱い者を裁く」という残酷な支配構造だけです。

私はたまらず介入し、その行為を止めようとしました。 しかし、そこで待っていたのは、組織の「平穏」を優先する大人たちからの叱責でした。
「子供の遊びに口を出しすぎるな」 「まずは現場のルールに従え」。
目の前で心が死にかけている子がいるのに、大人の都合を優先する。その絶望感は、今でも忘れることができません。
私は、あの場所の職員であることを辞めました。 組織の歯車としてではなく、一人の人間として、傷ついた子の盾になりたかったからです。

新しく始めたいろはじゅくには、誰かを裁く裁判も、心を汚す連呼もありません。
キャンドルの静かな灯りの中で、自分の言葉を大切にし、一人の人間として尊重される。
そんな「当たり前の安心」を、私は何よりも大切に守り抜くと決めています。